思い出
１９９Ｚ・０７・２５（金）
１３：００
終業式…学校の皆と過ごす時間が少なくなる時期…夏休み。
私は…ただ予定通りに、夏休みの為に増えたお稽古の『時間割』を過ごすだけ。
「今年の夏休みは、バイト三味さ。後半は遊び倒すけどな。」
『彼』の言葉が耳に残ります。これからの一月近くは遠方のバイトに泊まり掛け
で行くと聞いた時のこの胸の痛みは…何だったのでしょう？
私は、それでも何時もの様に過ごせると思っていました。
１９９Ｚ・０８・０１（金）
１２：００
私は何時もと変わらぬ生活を過ごしています。ただ、何時もと違うように感じる
のは、少しだけ隙間が空いている様な…寂しげな感じだけでした。
これは『学校』が無いからでしょうか？それとも『彼』が…居ない…から？
まだ、夏休みは始まったばかり、１週間の事だと云うのに既に何年も経った様な
気がします。私の周りだけ、時間が酷くゆっくり動いているのでしょうか？
私の、此の一種病的な状態を治せる人が居るとしたら、ただ一人『彼』の様な気
がします。
私は…まだ耐えられました。『彼』が帰ってくる日を知っていたから。
１９９Ｚ・０８・１０（日）
１２：３０
私が『日常の中の非日常』…『彼』が居ない事に耐えられ無くなった時、やっと
会えたのです。それは確かに偶然でした。しかし、私にはそんな事はどうでも良い
のです。
私が『時間割』の中でも楽しみにしている時間、「水泳部」の練習…尤も、今日
は次の予定があり、泳ぐ事は出来ませんでしたが…
そんな中、『彼』が現れました。私の心にあるまま、何時もどおり、普通の娘に
接する様に
「久しぶり。会いたかった。」
『彼』も私に会いたかったのでしょうか？『彼』の事ですから、「女の子」に対
する挨拶の様なものかも知れません。でも、私にはとても嬉しい言葉でした。
「今度、デートしようよ。」
私に向けられた、幾度目かの言葉。何時も、断っていました。それでも、繰り返
される言葉。断る理由…私も『彼』と一緒にいたい。でも、私の心が『彼』で一杯
になる事が恐いのでしょう。頷きかけても、最後にはやはり断るのです。
でも、今日の私は違いました。『彼』と会えなかった２週間が私を変えたのかも
知れません。
「お稽古の時間とかも在るから…考えてみるわ。」
何時も、『ご免なさい』しか云わなかった話題に、初めて勇気が持てた様な気が
します。
しかし、『彼』は「また断られた」と感じたらしく、それ以上は此の話題は出ま
せんでした。他の事には鋭い所を見せるのに、時々見せる『彼』の鈍さが私に苛立
ちを与える事を知らないのでしょうか？
結局、今日は『彼』との語らいが出来た幸せと、『彼』の鈍さへの苛立ちとで頭
の中が一杯になる事で、私の『日常』が帰ってきた事を実感しました。
１９９Ｚ・０８・１５（金）
１３：００
あれから『彼』とも良く会う様になりました。
在る時はお稽古の『通学中』に、そしてまた在る時は『先生』との出先で…
『彼』の態度はその一つゝが私の心を一喜一憂させます。
私は今日、学校の保健室に向かいました。
別に体の具合が悪い訳では在りません。保健医の斉藤先生に相談したかったので
す。『彼』の事を。
しかし、斉藤先生は居ませんでした。その代わり、『彼』が居たのです。
「真子先生なら、今日は薬局の方だって。」
私は、次のお稽古の為に時間が在りませんでした。
『彼』が代わりに相談に乗ると云ってくれますが、悩みの原因の人に対して相談
する事など、どうして出来ましょう？
『彼』も斉藤先生に相談が在ったらしいのですが、「私がデートの誘いに乗らな
い」事が悩みだと聞き、私の心は弾けそうになりました。
このまま『彼』と居れば、どうなったか判りません。私はその場を逃げる様に出
ていくと、次の誘いには必ず答えようと決心したのです。
１９９Ｚ・０８・１８（月）
１４：００
私が『彼』の誘いに答えようとした決心は、思いの他早くに実行できました。
私が久しぶりに水泳部で泳ぐ事が出来た時です。『彼』がプールにやって来て、
またデートに誘ってくれたのです。
しかも、先日の「考えてみる」と云った言葉も憶えていてくれてました。
私は、お稽古の無い日曜日ならばと日時を決め、初めてデートの誘いに答える事
が出来たのです。
１９９Ｚ・０８・２４（日）
１０：００
私は約束をしたその日から、周りに知られる事を恐れました。
何故なら、『彼』を問題児として快く思っていない人が多く、不幸にもその中に、
私の両親も含まれていたからです。
そして、特に幼なじみの健二君は事在る毎に『彼』と対立していますので、知ら
れれば必ず私の両親に報告する事でしょう。
私は自身に不自然が無い様に、しかし、『彼』の前ではやはり嬉しくなり確認し
て仕舞う…そんな１週間を過ごす事になりました。
そして約束の当日、『彼』は時間通りに現れ、私との二人だけの時間を過ごして
くれました。
私の初めてのデート…それは、大嫌いだった遊園地。幼い頃、此処で起きた出来
事は私の心に深く傷を残しました。
しかし、『彼』はそれを気にする事も無く、私を癒す様に、そして諭す様に話し
てくれます。私は『彼』の魅力を改めて感じ、これを「恋」と確信しました。
数々の乗り物に『彼』は惜しみなく付き合ってくれて、大嫌いだった遊園地を大
好きなものに作り替えて仕舞いました。
最後に行った「お化け屋敷」…『彼』の一寸した悪戯が元で私は『彼』に抱きつ
いて仕舞いました。もう、自分が何をしているかも考え付かず、ただ、心臓のドキ
ドキ鳴っている音しか聞こえていません。
ただ、その時『彼』が何を求めていたかが判り、恐くなった事。そして、ただ
『彼』の胸の中に居たかった事だけを憶えています。
胸の高鳴りが続く中、「お化け屋敷」も終わり、ジュースを呑みながら『彼』と
話す事が出来ました。それは、『彼』の考え方を知り、私も『これから』を明るく
過ごせるかも知れないと心が開けた様に思える様な話でした。
これからも『彼』と一緒に過ごせれば、私は変われるかも知れない。もっと、自
分を大切に生きられるかも知れない。
そう感じている時、不幸は訪れました。
遊園地に入る時に私を見つけた父の秘書が、とうとう園内でも私を見つけて仕舞
ったのです。このままでは『彼』にまで迷惑がかかって仕舞う。私は遊園地の出口
で『彼』と別れ、そのまま捕まって仕舞いました。
１９９Ｚ・０８・２７（水）
２３：００
楽しかった遊園地での一時…それを打ち壊す様な仕打ち。
私は『彼』に会うための手段を全て塞がれました。
学校には行けず、お稽古にも車での送り迎え…私の周りには常に父の目が光って
いました。
狂おしいほどの『彼』への想い。それが限界に達した時、一つの考えが私を支配
しました。或いは、私は静かに取り乱していたのかも知れません。
「父の目が届かない所に行けば『彼』に会えるかも知れない。」
私は一つの賭をしました。『彼』と対立している私の幼なじみ、健二君と家を出
ると云えば、父の目は届かない。健二君と外出して、『彼』の家に向かおう。
しかし、此の賭に負けて仕舞いました。
そもそも、勝てる要素の少ない賭でしたが、最悪の結果を生んで仕舞ったのです。
健二君は私の考えに気付いて仕舞い、事も在ろうに私をラブホテルに連れ込んで
仕舞いました。
嫌！絶対に嫌！私は大声で助けを乞い、逆らいました。
私の剣幕に驚いたのか、健二君も強引な事はしませんでしたが、それでも私を中
に入れようと説得します。私はどんな説得にも応じない積もりでした。
今日はこのまま帰っても良い。『彼』には会えなくとも、また方法を考えれば良
いのだから…と思っていました。
しかし、事はそれだけでは済みませんでした。
健二君とホテル前に居る所を『彼』に見られて仕舞ったのです。
違う！私は何もしていないの！
私は叫ぼうとしました。でも、声が出ません。そうでしょう、こんな所を見られ
て仕舞ったら何を云おうとも、信じて貰える筈が在りません。
私が何も云えずに、そして全てが恐ろしく目も上げられないまま、健二君は『彼』
に対し、在る事無い事云い出しています。
私は、これが自分のいる世界とは別の、私とは関係ないお話の様に、耳を通り抜
けていく言葉の羅列を聞き流していました。
不意に、『彼』が走り去りました。
待って！行かないで！…やはり、声は出ませんでした。
健二君も『彼』をやり込めた事で、急いで私をどうこうする積もりが無くなった
のでしょう。今日の所は、と私を自宅まで送ってくれました。ただ、一言
「彼奴と決着を付ける。」
…と、云い残して。
１９９Ｚ・０８・２９（金）
２１：００
私は此処にいます。
此の、『彼』の住む家の前に。『彼』が帰ってくるのを待つ為に。
一昨日のあの夜の後、私は自分から家を出る事を恐れるようになりました。
しかし、あの事が原因でハッキリ判った事があります。
私は『彼』を愛していると云う事を…
その意味では、健二君にも感謝しなければいけないでしょう。
私が『彼』に全てを捧げる決心が出来たのは、健二君との一件があったからなの
ですから。
私は、昨日一日は全てを恐れて何もしませんでした。ふと、自らの死が頭をよぎ
った事もあります。
しかし、あの遊園地の一時、そして『彼』との会話で『彼』の考えを道しるべと
して、『自分も出来る限り楽しく、大切に生きる』と教わった事を思い出し、どう
しても死ぬ事は出来ませんでした。
私は、『彼』を愛しています。『彼』にどう思われようと、私は『私』を大切に
する為に必要な事をしなければなりません。
お稽古の合間に抜け出して、此処まできました。
月明かりの向こうから、『彼』が帰ってきました。
「舞ちゃん…どうしたの？こんな遅くに…」
「拓郎君…」
私の夏休みの思い出は、これから作られる事でしょう。
Ｆｉｎ
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