斗うべき時
第６話 前日 〜それぞれの想い〜
浩之が臨時コーチに就任してから最初にした事は、葵の練習量制限だった
葵も「理屈では判っていたが、どうしても出来ない」と云う状況であったので、
浩之の半ば強制的な休憩に心から感謝していた
浩之は選手でもコーチとしての教育を受けた訳でも無いのだが、葵のコンディシ
ョンを整える事に精一杯考えている事が判る指示を出している事は、誰よりも葵自
身が判っていた
葵は浩之に対して全面的な信頼を置く様になっていた
綾香も宣言どおり、あれから毎日顔を出していた
浩之も、結局は葵一人での練習はイメージトレーニングの域を出ないと云う事に
気付いていたし、それを埋める為のスパーリングパートナーは自分には勤まらない
事を十分に承知していた
故に、綾香の訪問は浩之に取っても有り難いものだった
何故、浩之がそこまでこの試合に夢中になるのか、それは浩之自身も無意識に考
え様とはしていなかったのだが、葵の為を思っている事と、自分が始めようとした
事に対するプライド、そして何よりも綾香の正体を知って自分も近づきたいと云う
思いが何処かに間違いなく在った
綾香も毎日浩之に会う為の口実が出来たのは嬉しい事だった
しかも、今回は今までと違って「単に遊びに」だの「まぁ暇だから」と云う消極
的な理由では無く、自分が必要とされていると云う実感を伴った訪問なのだ
しかし、その分自分よりも先に浩之に想いを寄せていただろう姉に対する後ろめ
たさと、浩之の葵を思いやる言動にその心を見る事が出来ず、嫉妬にも似た感情を
覚えるのだった
それぞれが、それぞれの思いを持ち、１週間の練習が行われた
そして、今日は土曜日、試合の前日である
「葵ちゃん、一寸早いけど、今日は此処迄にしようか」
「はい」
「そうね、疲れが明日に残ったら本末転倒だしね」
「そう云う事、今日は早く帰ってとっとと寝る。寝不足や練習疲れで負けたなんて
云うのはエクストリームどころか格闘家として失格だろうからね」
「あら、ヒロも云う様になったじゃない…でも、本当よ。葵の頑張り屋な所は私か
ら見ても凄いと思える事だけど、裏目に出る事だって在るんだからね」
「はい、有り難う御座います、先輩、綾香さん」
「さて、片付けたら、今日は家まで送るよ、葵ちゃん」
「えっ？良いんですか？」
「良いのよ、私も一緒に行くから送り狼になんてさせないし」
「「綾香（さん）？」」
「何よ、私が一緒じゃ都合が悪いの？」
「いや…別に悪か無いけど、そんな事云い出したのは始めてだろ？」
「まぁね…まぁ良いじゃない、早く片付けて帰りましょ？」
云うが早いか綾香は早速道具を片付け出す
何か釈然としないものは有るが、早く帰る事には基本的に賛成なので、浩之と葵
もそれを手伝う様に片付けていった
三人は程なく片付けも終了し、葵の家に向かった
松原家の玄関に着くと、葵は二人に振り返った
「先輩、綾香さん、今日まで本当に有り難う御座いました。お二人のおかげで明日
は頑張れそうです」
「えぇ、葵も良くやったわ。明日は好恵を倒してエクストリームを莫迦にした事を
後悔させてやらなきゃね」
「ば〜か。此処まで来て妙なプレッシャーかけるんぢゃね〜。葵ちゃん、綾香の云
う事なんか関係ない。確かに勝つ事が最良だが、一番大事なのは坂下に葵ちゃんの
実力を見せてやる事だ。変な気負いは捨てろよ？」
「はい、有り難う御座います！今日は家まで送って頂いて有り難う御座います」
礼儀正しい葵らしく、深々と頭を下げて玄関に入っていく姿を見届けて、浩之は
帰ろうとする
「あら、私の事は送ってくれないの？」
「オレより強い奴を護衛してどうするよ？じゃ〜な」
「うるうる…今日、此処でヒロが一緒に居てくれなかった所為で私は帰り道に不良
の集団に囲まれるのね」
「何だ？」
「私の健闘も空しく最後には力尽きて、手負いの怒れる不良達が私を集団強姦する
んだわ！」
「をぃ！」
「そして、あまつさえ写真に取られて、それを弱みに売春なんかさせられて、私は
どんどん人生裏街道に堕ちていくのね！！」
「待てぃ！」
「あぁ、あの時ヒロが私を送ってくれていれば！私は毎夜の様に今日の事を思い出
しては悔し涙に濡れるのよ！！！」
「…判った、送っていくよ…」
「有り難う、ヒロ」
がっくり項垂れる浩之と、『してやったり！』とニンマリして抵抗が無いのを良
い事に腕に抱きつく綾香のツーショットが来栖川邸に向けて歩き出した
来栖川低も遠くに見え（高台の大豪邸なので多少遠くても見えて仕舞う）た辺り
で綾香は浩之に話し掛ける
「ねぇ、ヒロ？」
「何だよ」
「…まだ怒ってるの？女の子を夕暮れに独りで帰そうとなんかするからじゃない…」
「判ったよ、で、何だ？」
「うん…何でヒロは明日の試合の為に此処までやったの？」
「あ？」
「私の様に自分のプライドが賭かってる訳でもないし、同好会にだってまだ入って
一ヶ月も経って無いでしょ？それにしては凄く熱心にやってたでしょ？」
思いも掛けない質問だった
浩之自身、考えまいとしていた事を、よりにもよって綾香から質問されて仕舞っ
たのだ
浩之は答えられずに足も止まって仕舞った
確かに「プライドの為」だの「同好会の為」だの云う理由も無い訳ではない
「葵の為」と云う理由だって嘘では無いが、それが主な訳でも無い
此処まで自分がやって来れた理由…それは最近薄々思い至っていた所だが、まだ
綾香には云いたく無いモノだ
「…どうしても、云わなきゃ…駄目か？」
何時に無く、真面目な顔で綾香を見詰める浩之
「そう…判ったわ…」
綾香には他に思い付く理由が無かった
綾香自身に云いたくない、しかも何時に無く熱心に葵の事を思いやる理由…
つまりは『好きな娘（葵）の役に立ちたい』と…
浩之は出来ればまだ告白したくない現状で「判った」と云う綾香に吃驚するが、
どうも自分が思っている理由と違う所で納得している様な雰囲気に気付いた
「綾香？お前何か勘違いしてないか？」
「勘違い？別にそんなモノしてないわよ？…あ、ウチも見えて来たし、此処までで
良いわ、有り難う、ヒロ。また明日、試合場で会いましょう？」
云うが早いか、綾香は駆け出して行って仕舞う
「あ…」
浩之も追いかけ様とするが、「追いかけていってどうする積もりだ？」と云う考
えが頭をよぎり、追う事が出来なかった
「チッ…」
浩之は自分の優柔不断さに嫌気が差した様に舌打ちすると、自分の家に向けて踵
を返した
夜
どんな想いを抱えている者にも均等に夜は闇を持って来る
翌日の試合に気合と緊張を織り交ぜて待ち望む者…
翌日の試合に出る選手に自分の誇りを賭けて稽古を付けていた者…
そして、自らの行いとその想いを巧く表わす事が出来ずに思い悩む者にも…
そして、夜の次には必ず朝がやって来る
その者達が何を思おうとに関係なく…
To be continuede
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